空気嫁について

「空気読め」って何だと最近良く思う。
ブログ界隈ではちょっと前から流行ってて、自分の周りでもしばしば聞くようになった。
これってなんか正確な定義の無い言葉で「正義に殉じろ」「健全たれ」とかいうのに似てる。
ある場所では「ちゃんと空気読まなきゃ」と思うし、誰かが「あいつ空気読めてねえな」とか言ってるのを見るとアホかと思う。
面白おかしく使ってるのを見ると面白おかしい気持ちになるし、すごい重要な話題として語られることもある。
基本わけの分らない言葉なので、自分なりに解釈していろいろ書いてみる。


◆「空気」に纏わるケース:A
複数人で楽しく会話

Aがちょっとしたボケをかます

場のマスター格が「空気読めよ〜」と天然ぶりを指摘

他「天然さんウケる!」となり盛り上がる

(数回繰り返し)

図らずもA人気者


◆「空気」に纏わるケース:B
複数人で楽しく会話

Bが周りを無視した危ない発言

他は「空気読めてなくない?」とは思っているが言えない

場のマスター格がいつもと違う濁した反応

他「やっぱりこいつ空気読めてない」と思う(暗黙の同意)

(数回繰り返し)

次第に「Bは空気読めてない」との風聞が蔓延

無意識の内にBをハブる方向に


実際俺周辺では、誰かに「空気読め」とガチで言うケースはまれで、大抵は冗談として取り扱われることが多い。天然発言に対して、「このひと面白い事言いましたよ」的な「ツッコミ」(ケース:A)。
ただこれが、場にいない第三者を指して使った途端、割と深刻な話になってくる。はっきり言うと「コミュニケーション不全」の話。「こちらのことを理解する気が無い」「自分のことしか考えてない」といった今後の付き合い方に差し障る不景気な話になる(ケース:B)。

ケース:Aは大抵長閑なのだけど、「空気読め」が「バルス」級の魔法だと勘違いしてるひとが、度を過ぎた他人いじりで対象を貶めてることもある。

俺は、天然さんは笑ってあげるのがいいと思う。
「あなたの発言は可笑しいですよ」という表明は、そのひとのこれからのコミュニケーション観を変え、広げるきっかけとしてはとても貴重。
ただ問題は「空気読めw」の後であり、「このひとは悪い奴じゃないけどズレてて面白い」となるか「こいつ馬鹿じゃん馬鹿、今後も馬鹿にしていく所存」となるかはアフターケアにかかっている。もちろんそれは「空気読め」発言主の役目だろうし、可能であれば他からのフォローがあっていいと思う。本人はがんばれと思う。

要するに「読め」発言主自身が果たして「空気を読んで」るかということで、それが自分であれば常に問い続けるべきだし、周りは常に「読んで」おくといい。

同じように、ガチで「空気が読めてない」っぽい発言があった場合、まずはそのひとの事を「読ま」なくてはいけない。「空気読んだ」上での発言かも知れず、その場合、「読めてない」のは自分ということになる。感情的になって「読む」のを怠る、思わず口をついて「読めてない」言葉が出てしまったという場合もある。


ただ本当に「読めない」ひとはいる。
前述ケース:Bの場合がとても厄介で、それこそ自分の「空気読む能力」みたいなのを問わずにいられない。
突然関係ない話題を振る、言って欲しくないことを言って欲しくないひとの前で言う、総意が固まったかと思ったら突然翻る。その場の誰か、あるいはその場全体に迷惑な発言をして煙たがれるひとというのは結構いる。
これがただの友達づきあいであれば、上手く笑いに持ち込むのがベスト。みんなで理解してあげるのもいい。
しかし職場になると話が違ってくる。
伝達事項は微妙に歪んで伝わるし、こちらの意見は簡素な相槌のみで流され、脈絡の無いところで的外れな話題が飛び出す。仕事に必要なやり取りさえ出来なくなる。


推測される仕組みは、相手の発言を言葉通りにしか捉えない、発言に至った動機を考えないというもので、相手の意図を汲もうとする意識の欠如が原因。
この意識をゼロから持つのは大変難しく、「意図を汲むよう心がけろ」というオーダーは、汲もうとしないひとにとって、まったくもって意味不明な言葉となる。何しろ自覚症状がないのだから。
この自覚症状というのは「他人の気持ちが分からない」というものではない。それくらいならば誰でも思ってる(例外アリ)。
それでコミュニケーションを思い切り投げているのであればいい。そういう覚悟でもって生きてるひともいるし、そういうひとはコミュニケーションの要らない稀少な職場に行くか、コミュニケーションがぶっ飛ぶような結果を出す。

問題は「分かりっこない」を理由に考えるのをやめてるひとや、「分かってる」と勝手に納得して答え合わせをしないひと。
このひとたちは「これでコミュニケーションは成り立っている」と高を括っているため、歩み寄らない。
だから「理解されたい」欲求には寛容に見えて、他人のことは理解しない上、理解されないことに強い不満を持つ。
こうなると「空気読め」の言葉はまず通じない。「読んでますが何か」か「お前が言うな」と返ってくる。
だから、「読め」ではなく「この空気はなんか違うかな?」と自発的に思わせるのが順当で、目に余った際の苦肉の策が「空気嫁」だと思う。
みだりに「空気読んで下さい」とか言ってると、かなりの確率で「お前が言うな」となる。


そして、どうやっても「コイツは読もうとしない」と踏んだならば、これはもう遠ざけるしかなくなってくる。
といっても無視の類ではなく、理解を放棄するという意味で、話は聞くけど適当に流すし、こちらから有益な情報、肝心な情報は流さない、というゆるやかな不信表明。相手を安心させながら、じっくりコトコト遠ざける。

そのためには大勢でバイアスをかけなくてはいけないので、周りの人を理解して、理解してもらわないといけない。
「空気読んでない」ひとをどうにかするためにもやはり「空気を読んで」かないといけない。
いや職場の話ならスッキリ解雇で済むのだろうけど。


と、ここまで書いて、頭をよぎったのが、自分はもしかしたら、気づいてないだけで、ケース:Bかもしれないという不安。


世の中のひとは、みんなこの不安と勇敢に戦っているのだろうなと思うと、ものすごくどきどきする。
だから俺はこれからもどきどきしながら空気を読もうとし、会話を続けるのだろうと思う。
「空気読んでほしい」と思う前に「空気読もう」と考えていたい。


最後に、「空気」も所詮主観の域を出ず、自分がそこから抜け出せないという点では、中二の大好きな「世界」という言葉に似てる。イッツアスモールワールド。
からして、他のひと達から見た「空気」と、一人ずつ、暗黙の内にすり合わせて、修正して、広げていかなくてはいけない。
この作業こそが「空気を読む」ということなんだなと思う。正直メンドクサイ。